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8月6日に思う事 [日記]

昔父が折々に、断片的に話してくれたことを思い出します。私の記憶も曖昧な所があるの

で悪しからず。


昭和20年8月6日朝、私の父は広島市の郊外の小学校で、畳を敷いた校舎の2階でゴロ

ゴロしていたそうです。

主計科の幹部候補生試験(下士官試験)を受けるためにこの小学校に宿泊していました。

父は当時陸軍船舶工兵の上等兵で、21歳でした。その日は休暇の日で、多くの宿泊してい

た同僚が広島市内に外出して行ったそうです。

閃光がして、爆風で校舎が傾いたそうです。雨どいを伝って下に降りたそうです。しばら

くすると、焼けただれた人々が亡霊の様に歩いて来たそうです。「兵隊さん助けてくださ

い」、「兵隊さん水を下さい」と。父はなすすべもなく、その凄惨な光景から、何かとて

つもなく恐ろしい事が起こっていると感じたそうです。もの凄い恐怖心から、近くの山の

中にしばらくの間逃げ込んでしまったそうです。広島市内に外出した同僚は、夜になって

もほとんど戻って来なかったそうです。

その後終戦になり、結局試験は受けられなかったそうですが、2階級特進の所謂ポツダム

伍長で除隊となったそうです。除隊の少し前の休暇時の話だと思いますが、広島(おそら

く呉)から山口の実家に帰った時には、父は貰ったと言っていましたが、缶詰などの食料

をリヤカーに沢山積んで歩いて帰ったそうです。

道すがら警備の兵士は父の伍長の階級章を見ただけで、何も咎めず敬礼して通してくれた

そうです。警備をしていたのは下級兵士ばかりで、将校や下士官はいなかったそうです。

実家の祖父は、父が生きて、しかも食料を持って帰って来たので大変喜んだそうです。

父の兄たちは皆中国などの戦地に行っていたので、原爆の後、父が無事に帰ったのは何よ

り嬉しかったそうです。

戦後、親戚から何度も被爆者手帳の交付を受けた方が良いと言われたそうですが、父は頑

なに断っていたそうです。陸軍の記録で当日広島にいたことは容易に証明できたのですが。


今年は父の33回忌をやることになっており、お寺にも予約してあるのですが、現在の状況

では出来ないかもしれません。今年93歳になる母は是非やりたがっています。これが終わ

れば次は自分の番だからなどと言っているので、まだ長生きしそうです。(^^;


私が21歳の時と言えば、昭和48年ですので、勉強はせずにギターばかり弾いて、天地真理

にお熱を上げていた頃です。私は父よりは幸福な人生を送れたのでしょうか。もう、亡くな

った時の父の年齢を私は超えてしまいましたが。(^^;


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